アドバイザーレポート
桜の花が美しく咲いて人に喜ばれるのは、いっぺんに、どこからともなく花が出て来たのではない。それは、根があり、幹があり、枝があり、葉があり、その根が、幹が、枝が、地の中にある養分を苦労して吸い上げ、葉が太陽のお光をいただいて、吸気中の炭酸ガスを吸収して、一所懸命にそれを同化して、やっと小さな芽のような蕾を作り上げ、その蕾を育て上げて、ついに、あの美しい花を咲かせたのです。人間が今日あるもの、ただひとり、自分の力でここに生まれ出ているのではない。花には幹があり、根があるように、人間には父があり母があり、祖先があり、祖先のもとには神様があり、その神様のいのちが自分に通うて生きているのです。ですから、神様に感謝しなければならぬ、祖先に感謝しなければならぬ、父母に感謝しなければならぬ。人間は肉体のようにみえても「心」なんだから、「心」で感謝することが自分の「いのち」の根に養分をやることになるのである。……貧乏をしたり、病気をしたりするのは、根に栄養が足らぬからです。感謝が根に栄養をやることになるのであります。……そうしていますと、毎日いっそう人間は元気になり、運が良くなり何事も都合よく行くようになります。(『美と健康の創造』より)
私という一つの生命がこの世に存在しているということは、父と母がいたからであり、その父と母にもそれぞれ父と母がいます。父母が2人、祖父母が4人、曾祖父母が8人とたどっていくと、10代では1,024人、20代では104万人以上、30代では、10億を超えて1,073,741,824人という膨大な数になります。10億人のたった1人が欠けても私達はこの世に生まれてくることは出来ないのです。そのことを考えますと生命の神秘さを感じます。たくさんの命とつながって、今の自分が存在するのです。両親やご先祖様に感謝せずにはいられない思いになります。また、自分の命もまた引き継がれて、やがて自分が先祖の一員となる事を考えると、自分の生命がかけがえのない貴重な生命であることに感動を覚えます。
自分がこうして今、生きているのは、親・先祖のおかげと感謝すると、私達国民を赤子(我が子)として常に祝福して下さっている天皇陛下への感謝の念が起こります。更には、日本国に生まれたことに感謝するようになり、自分の国(日本)に誇りを持てます。親・先祖を大切にすることは、いのちの繋がりに感謝せずにはいられなくなるということでしょう。そして、感謝はすべてを癒し、運命を好転することになります。
②子供が親・先祖を大切にするようになるために、親はどのように心がければ良いでしょうか。
子供は、本来模倣する性質があります。子供に持たせたい習慣などは、まず親が行動に現すことが肝要です。生命の教育の『しつけ』と同じで、まず親が「しつづける」事が大切です。子供の心に映しこまれたら、やがて行動化されてくるはずです。
核家族化し、家に仏壇(ここでは仏教を例にしますが)や神棚のない家庭も多いのではないでしょうか。家に仏壇のある方は、朝晩手を合わせて尊敬と感謝の気持ちで「いつも見守ってくださってありがとうございます。今日もよろしくお願いします」と日々の見守りお導きに、お礼を言いましょう。また、外出先から戻ったら「無事に帰りました。ありがとうございます」とお礼を言うようにしてはいかがでしょう。何か頂き物があれば、まず仏壇に供えましょう。これは品物を供える『物施(ぶっせ)』と言います。法事の時などにお寺さんがお経(神道の方は祝詞、キリスト教の方は聖書)を読まれますが、真理の言葉を読んであげることを『法施(ほっせ)』といいます。真理の言葉も、ご先祖様が大変喜ばれることです。
仏壇等の無い方は、写真を飾っても良いのではないでしょうか。心を向けるものがあれば、感謝の思いを伝えやすいと思います。しかし、形にとらわれず、「目にはみえないけれど、ご先祖様はいつもそばにいて見守ってくれているのよ」と見えない命に感謝することをお話しながら、生活の中で実践なさってはいかがでしょうか。
お盆やお彼岸は、家族そろってお墓参りをして、はるか昔から命が繋がれてきたことについて子供さん達と話し合うのも意義のある事ではないでしょうか。
また、家族の誕生日には、皆さんのご家庭でも誕生会をなさっているのではないでしょうか。私は自分の誕生日には、両親に「私を産んでくださってありがとうございます。お父さん、お母さんの子供でよかった、幸せです。ありがとう」と伝えるようにしています。両親は、とても喜んでくれて「生まれて来てくれてありがとう。こちらこそありがとう」と私の誕生を祝福してくれます。ご両親に感謝の気持ちを伝える良い機会なので、なさってみてはいかがでしょう。
生命のあるところ、『中心』があります。「宇宙」という大きな家から、「物質原子」という小さな家まで、中心があります。「家」の中心は、親であり、ご先祖様です。
親・両親に感謝の生活をしている時、生命の法則にかないますから、必ず幸福になります。子供に宿る善性を信じ、いつか花開くその日を信じて待つという気持ちを持つて、まず自分が家庭の中で実践しつづけてみましょう。子供はきっと親・ご先祖様を大切にする子供に育ちます。
私がこの世に生まれてくるのに、父母が2人、祖父母が4人、曾祖父母は8人と、さかのぼると、10代目に1,024人、20代目は104万人、30代目は10億人以上に達し、その内の一人が欠けても私の存在はないということになり、生命の神秘、生命のつながりを感じます。
そしてひとりで大きくなったのではなく、親をはじめ多くの人のお世話で育てて頂き、今日があるという事を忘れてはなりません。人はこどもの頃から成人になるまで、又それ以降も様々な人生体験をしていく過程において、たとえ不幸な状況下にあっても、親の愛を感じることができ、親の恩を忘れず感謝することができれば、根本から自分の人生はよいものになっていくのです。
「生命の教育」は親に感謝し、先祖を大切にすることを最も重要視しています。親と子の関係が良く、親を尊敬できるこどもは、真に幸せな人生を歩むことができます。〝よい子〟とは〝幸せな子〟の代名詞です。家庭が明るく愛情に満ちていれば、こどもの情緒は安定します。しかし俗に問題児とか困ったこどもといわれるこどもの心の中は、悲しみでいっぱいであり、その原因は、100%といってもよいくらい親子の問題であります。
ある国際調査の結果から日本の中高生の現況を示すデータがあります。両親を尊敬していますかとの質問に、尊敬しているとの答えは、アメリカ・トルコなどはほぼ100%であったのに対して、日本は40%と低く、又親がこどもから尊敬されていると思うかとの質問に対し、アメリカ・トルコはほぼ100%であったのに対し日本は20~30%と低く、日本の親と子の信頼関係がうまくいっていないことを示しています。
そして日本の高校生で自分はダメだと思っている人が、66%という数字でわかるように、自信のなさがうかがえるのです。
①親が嫌いになると、自分の存在そのものがいやになり、自己嫌悪に陥り、自分に誇りが持てなくなる。②潜在意識の働きで、自分が不幸になることを求める心が生じ、嫌いな親を困らせたいと反抗的になったり非行に走ることもある。③どんなに愛し合って結婚しても、親を憎んでいると、結婚生活が破綻するかうまくいかなくなる。娘が父を憎んでいると、心理的には夫が父の代理となり夫とうまくいかないし、息子が母を憎んでいれば、妻が母の代理となってうまくいかないのである。父母を尊敬し、敬愛していきますと、夫婦円満となっていく。④こどもから反抗的な態度をとられ、こどもの悩みが絶えないようなことになる。こどもの姿の中にかつて自分が親を困らせたと似た様な行動をとって、その時親の気持ちを思い知らせてくれることになる。これは心の法則が働いて因果応報(仏教的に)の現象である。この時親の気持ちを理解し、あらためて感謝ができたとき、こどもの非行が消えたと言うことは数多くある。⑤又親に感謝出来ない人は職場で上司や目上の人との関係が上手くいかない問題が起きやすく、転職しても同じようなことが起き、親との不仲が原因となっている。
以上のことからみても、親に感謝ができることがいかに大切であるかということがわかります。この時、不幸を招かないための手段として親を大切にするのではなく、純粋に親の恩、親の尊さを思い、感謝することが人としての道であるということです。昔から言われてきた『孝は百行の基』という素晴らしい言葉は意味深いものであります。
ジェンダーフリー思想の下「男らしさ」「女らしさ」の追放を目指し、わが国で過去に行われていた「道徳的純潔教育を性への偏見」と言い、性の自由化(豊かな性)の精神の下子供が羞恥心を持たない早期に子供の発達段階を無視して科学的合理的な知識を与えるべきだと主張し、運動を全国的に展開している団体が、現在多くの学校で過激な性教育を行わせている。本当の性教育とは「人間誕生の神秘と荘厳、自分の生命とは如何なるのもか」を教えることである。
私事で恐縮ですが昨年娘が結婚し今年夏に男子を出産しました。妊娠してから毎月の検診でエコー写真を頂き、娘も私も神様から授かった赤ちゃんの成長に感激し生命の神秘と尊さに本当に感動し感謝しました。また、お産の時娘の旦那様が立会い出産をして下さったのです。娘も大変心強かったと言ってました。娘の旦那様も出産の大変さがわかり生命の尊厳性や神秘さにとても感動した様です。産後も娘や赤ちゃんに大変優しくして下さっています。赤ちゃんは娘夫婦、両家の祖父母にも似ていて命のつながりの不思議さを感じ、毎日「パパとママの所に産まれてきてくれてありがとう」と言つて神様御先祖様にも感謝し、また親への有難味もわかったようです。まさしくこれが性教育ではないかと思います。
人間とは如何なるものか。「生命の教育」では人間誕生は神の自己完成であると、谷口雅春先生は以下の様にお説き下さっています。
≪神様は大自然力を持って無数のものをお拵らえになった。大自然力のままではどうしても出来ないものが残っている。たとえば書物や湯飲み茶碗を作ることは出来ない。出来ないものが沢山残っているような事では「神は全知全能」と言うことは出来ない事になる。神様はご自分の生命を人間として顕現して大自然の生の力のままでは出来なかったところの創造の御業を人間の姿に神が顕われてそれを完成し給うということになっているのである。これが地上に人間が誕生したところの目的であるという事が出来るのである。「人間は神の最高の自己実現である」≫
子供が自分の存在,生まれて来た事に自信、誇り、喜びを感じたとき、自分を尊び、また周りの人をも尊敬出来る様になる。
その人間として神の子として誕生するには、父母の肉体的交合がなければ生まれてくる事は出来ない。現象世界に存在するものは全て陰陽の結合のよつて成り立っている。男性は陽、女性は陰、陰陽の結合により新しい価値、子供が生まれるのである。日本の伝統的な表現ではこれを「むすぴ」という。
≪神様がその最高の自己実現を完成し、人間の姿をとって地上に誕生するために適当な条件を与え、色々な要素が人間として姿を顕すための素材を供給して下さったのが父母である。だから神の最高の自己顕現たる「人間誕生」の荘厳なる出来事には是非とも人間の父母で要るのである。これが本当にわかる時、子供は父母に自然に感謝出来るようになります。≫
ここに示されている様に性的行為は宇宙の営みに参画する、神聖な行事である。
娘も立会い出産をしビデオを撮っており子供がもの心がついたら、赤らやんが産まれてくる時の様子、神様御先祖様に導かれ祝福されて元気な産声をあげ、母子共に無事に出産し皆が感動で喜びの涙を流しどれだけ喜び安心したか‥皆に愛されて慈しんで育てられた事を話して聞かせてあげたら、自己肯定感に繋がり自分に自信を持ち、父母や周りの人達を愛し感謝し素直で明るく積極的で素晴らしい青年に生長してくれる事と信じ、神の子として拝み祈らせてもらっています。神様ご先祖様に導かれ、祝福されて生まれた尊い命の大切さが理解出来たら、無責任な性行為は出来ないはずです。自分達がしっかりと責任を持ち周りの人々にも祝福される時まで考えて行動するはずである。
≪結婚は互いに半分の魂が波長の類似によって互いに引き寄せられ、合して互いに「完体」となるのであり、経済関係や性欲の処理のためにもっとも安易な形式として行われるような安っぽいものではない。このような結婚の神聖な意義を知ってこそ結婚後の生活を幸福に健全に送る事が出来る。
◎ 性教育のポイント
日常生活の中で、子供に人間がこの世に誕生する事の重大な意識をなんとなく感じさせる事が大事である。
○生き甲斐ある、価値ある人生を生きること
・本当の愛を表現すること
両親がお互いを尊敬しあって仲良く生活している姿は、子供にとっては何よりも安心感が得られ、親からの愛情を素直に受け入れる事が出来る。その経験があると、自分を愛してくれる両親や祖父母を愛する経験をする。「虐待」は親から無条件に愛されると云う経験がない事が多く、相手の愛情を素直に受け入れる事が出来ず、成人してから問題を引き起こす原因となっている事が多い。成長するに伴い愛して下さる親、友人を更に異性を愛する段階を経験するようになる。そして与えるだけの愛を体験する。
・与えられた使命を生きる
その人の人生はその人でなければ出来ない人生の課題を解いていく過程である。子供の人生を代わる事は出来ない。今の課題をクリアしながら我々はその使命を生きている。「男らしさ」「女らしさ」をみとめ、その本質、生まれて来た意義や使命を認め子供が生き甲斐をもち逞しく自立するように導く。
家庭生活では、父親が家の中心でイニシアティブをとり、母親は父親に「ハイニコボン」と従う拝み合いの夫婦調和した家庭こそ子供が安心して育ち、御先祖様両親に感謝する事は子供自身の人生を祝福することにもなる。子供も色々な問題を解決する力を発揮出来る。
美智子皇后陛下の御歌
あづかれる 宝にも似て あるときは 吾子(わこ)ながら腕(かひな)
おそれつつ抱(いだ)く
子供を育てさせて頂く事が親の人生勉強、 魂の向上、授かった子供は夫婦円満に生活し拝んで育てさせて頂くことが大事である。
◎ 子供達との性問答
「人は如何に生きるか」を親自身が身を持って伝えること。性に関する話題に対しては一生に関わる事だから子供と真剣にむきあう。子供の質問には淫らな事は全くないので、事実だけをサラッという。神秘がる心を生かす様にする。・うそを言わない。・質問の的を外さない。・質問以上の答えをしない。・躊躇しない。・出来るだけ神秘的に美しく聞かせる。
さて、課題のことですが……
お子さんは学校で偏ったあるいは過激な性教育の授業を受け、ショックをうけたのかも知れません。たとえ学校で偏った授業を受けたとしても、ご両親祖父母家族が皆明るくて調和した生活をする事。
先にも述べましたが、お子さんに「人間誕生の荘厳さ、すばらしさ、赤ちゃん誕生の感動」と産まれた時の周りの皆の祝福と喜びを伝える。人を愛し親や周りの人々の沢山の祝福を受けて結婚し待望の赤ちやんが授かり、父母や祖父母皆の大変な祝福と喜びの中に産まれてきた。神様からの授かりものとして、最高に愛されて大切に慈しんで育てられたこと。どんな子供でも尊い命、使命と目的それを集現させるための能力を持って生まれてくる事。赤ちゃんの誕生とは本当に神秘的で素晴らしい、家族一人一人を尊敬し合い調和した家庭を作る事が人生の大きな幸せ、喜びである事。この種な話を聞いた子供は喜び自己肯定感をもち、自分に自信を持ら健全に生長してゆくことでしょう。
一番大事な事は明るく夫婦家族調和した喜びの生活を送ることである。子供は親を見ていて同じ生活を送ることになります。これが全ての基本です。夫を中心とした家族調和した喜びの生活ですべての問題が解決します。
<O.Yさん>
子供の性教育は、私の所は親子で受ける様なものでした。昔は子供だけで受けていたようですが、親子一緒に受けると子供にも話しやすいという親御さんの意見もありました。親と一緒に性教育の授業を受けることによって子供の様子も分かり、子供も気になることを家で話しやすいと思います。話し方によって子供の人生も違ってきます。正しい性教育をしていくことはとても大切なことです。
まず「生命(いのち)」の誕生から話していくことが大事です。人間は生まれたときは「はだか」です。何も持たずに生まれてきますが、成長すればそれにあった服装や表現の仕方もします。現象世界は陰陽の結合によって成り立っています。人間も男女に分かれているように、男性は陽で女性は陰です。この結合によって子供が生まれます。そしてこの父母の交合は、大自然の生命(神のいのち)につながるためのきっかけであり、神のいのちが人間の姿をとって地上に誕生するための素材を供給するのが父母です。
神の最高の自己実現である「人間の誕生」の荘厳なる出来事には人間の父母がいります。これが本当に分かるとき、子供は父母に自然に感謝し、性的行為は神聖な行事だと分かってきます。
両親が仲良くしていることも、子供にとって一番いい性教育でもあります。両親が仲良くしているからこそ、自分は祝福されて生まれてきたということにつながります。
生まれたときは無条件に愛される経験をし、成長するに従って、親、友人、異性を愛する段階を経験していきます。そして与えるだけの愛を体験します。最後に放つ愛を学びます。神の子として、信じ見守る愛です。執着の愛は相手を苦しめるだけです。
そして与えられた人生を生きることです。その人の人生はその人でなければできない人生の課題があり、解いていかなければなりません。私達はその使命を生きています。家庭が調和している子供達は、安心してその時々の課題を自ら解決していく力を発揮することができます。そして心の教育になります。子どもは神様が与えられた授かりものです。このことを子供に教えていくことはとても良いことです。
本当に、夫婦円満でいることは大切です。夫(父親)は家庭の大黒柱ですから、夫(父親)の気持ちに第一に従っている妻(母親)の姿を見たとき、子供は生まれてきたことに喜びを感じ取り、いい方向に育っていきます。子供達は、先祖の命を受け継いで、この世に誕生します。ですから、親たちがまず自分達の父母への感謝をし、先祖に感謝していくことが、性教育だけでなく全ての問題を解決することになります。そしてそれらのことは、子供達が自分の人世を祝福することに通じ、劣等感は消えていくことになります。
性教育は一生に係わることです。「人は如何に生きるか」を親自身が身を以て伝えていくことが大切です。日常会話のついでに話すのではなく、子供と向き合って話していくことが大事です。
子供は色々質問してきますが、大事なことは、①うそをいってはならない ②質問の的を外さない ③質問以上の答えはしない ④躊躇しない ⑤できるだけ美しく聞かせる
このことだと思います。
そして子供がよくする質問は、「赤ちゃんはどこから生まれるの」「赤ちゃんはどこから出てくるの」といった質問です。この疑問は、私も子供の頃思っていた疑問です。私はこの疑問を親に言った記憶はありませんが、子供に聞かれたらその答えを考えておくことが大事と思います。
「赤ちゃんはどこから生まれるの」という質問は、「神さまがお父さんとお母さんが仲良く寝ていたとき、お母さんのおなかに赤ちゃんを入れて下さったのよ」というような答えでいいと思います。
そして成長するに従って帰宅時間や家庭のルールを話し合うことが大切になってきます。親子で話し合い、家庭のルールを守ってもらい、コミュニケーションを取っておくことが一番重要だと思います。
「生命の教育」の本質は、子どもの実相(ほんとうのすがた)は、本来完全円満である(神の生命が宿っている)と、観ることにあります。人間は神から与えられた天分・才能を持って生まれてきています。そのことを親や大人が発見して引き出すことにより、天分が発揮されるのです。一般的に“天才”というと特に優れた才能を持っていて優れた業績を残した人(エジソンやアインシュタイン等)だけであると思っていて、多くの人は天才でなく、天才を持っていないと思っています。しかしそれは持っている“天与の才能(天才)”が発揮されていなかっただけです。
神さまは人間一人一人に、他の人とは比べることのできない“個性”という宝を与えて下さっています。ですから、みな天分・才能を持って生まれてきたことを自覚することです。世の中のお役に立つために、使命達成のために、その才能を発揮することこそが、人生の目的であり、喜びなのだと、私には理解できるのです。
谷口雅春先生のご著書の中には、はっきりと書かれています。「天才を、人間は皆もって生まれて来ているのだ。それに人間はみんな天才にはならない。それは不合理だ。その不合理は誰がするか。人間が真理を知らないからだ。親たるものが真理を知らないからだ。ダイヤモンドをもっていながら石と思って捨てて顧みないからだ。」
子どもは天才を持って生まれているのに、天才を発揮出来ないには、親が真理を知らず、子どもの天才に気が付かないからだ、と。子どもの天才を見出し、発揮させるか否かは、親や大人が子どもに内在する天分・才能を見出して伸ばし育てるかにかかっているということになります。
「生命の教育」における天才を引き出す教育の原理について、第一原理から第五原理まで述べていきたいと思います。
第一原理は「人間は生まれながらにして天才である」ということなのです。「生命の教育」は、従来の教育法(すなわち、子どもは何もわからないので、教え込んで知識を与えなくてはならないなど)と違って、天から与えられた才能を持っていることを、認めて、引き出す教育法なのです。このためには、「観の教育」といって、“観の転換”すなわち、観方をかえることが先ず肝腎なのです。
『生命の實相』には、「幼児に宿っている天才は、まだ彫琢しないダイヤモンドだ。表面にまだ天才の閃きがないからとて失望するな」と書かれています。そしてさらに「神は人間をして、安価な怠惰の中に腐敗せしめないためだ。人間みずからの努力と発見とを神が喜び給うからだ。」とあります。
我々人間の中には、無限の力が内蔵していることを信じて、自覚し、努力することが大切です。
第二原理として、「個性を発見し、個性を伸ばす」ことです。親や教師が、自分の固定観念で、常識的な知識にとらわれ、教え込もうとしてもうまくいかないものです。その子にしかない天与の才能を花開かせることに集中することです。桜の花とバラの花とでは、どちらが美しいかと問われても、答えられないでありましょう。それが個性的価値なのです。
第三原理は、「啐啄同時の教育」です。耳慣れない言葉ですが、「今」現れ出ようとしている才能を、「今」引き出すということです。まさに、「今を生かす教育」なのです。子どもが求めているときに、丁度よく与えてやることです。今現れ出ようとしている子どもの才能を、見逃してはならないのです。
第四原理は、「励まし賞讃せよ」ということです。子どもは親にほめられることが嬉しくて、喜ばせようと努力するものです。「ほめればほめる方向に、子どもは喜んでずんずん成長するものだ。」「いかなる方向であろうと、子どもに天賦の才能がみとめられれば、全力をあげて、その方向に才能を伸ばせよ」と『生命の實相』には書かれています。
第五原理は、「不思善悪の教育」です。子どもを取り巻く環境にいろいろな事が起きますが、どんな事が起きても心配しないことです。親の尺度で善悪の判断をしすぎてはいけないのです。一見悪い事と見えても、その子に必要な一課程であると受け止め、子どもが成長するために必要なこととして、感謝することが大切なことなのです。そうすることで、内在の才能が滔々と流れ出てくることになるのです。子どもに宿る天才がもっとも出やすい状態になってくるということです。これこそは、「生命の教育」の不思議なところといっていいでしょう。
第五原理まで述べましたが、天分を引き出す教育は、まさに実践することです。「この子には天与の才能があるのだ」ということを、先ず親が認識し、それを本人に自覚させることが大切です。また発揮されていない状態でも、希望をもって切磋琢磨し、天才を発現させるよう、努力させることが肝心なのです。しかし、天才があるからといって増上慢になって努力を怠るようなことがあってはならないし、どんなに発揮しても、これでおしまいということはないのです。(中略)
はじめから子どもの天才が解っていればこんな簡単なことはないのです。しかし自分の才能が何であるか模索しながら、全人格的に学び成長していくことが大切なことなのです。
(中略)
子どもの天才を見出し、発揮させる時というのは、遠い将来ではなく、まさに「今」であり、「今」の連続の努力です。
親は子どもが宝石の様に輝く瞬間を見るとき、それは勉強面かも知れません。運動や芸術、又は器用さ、心の優しさかも知れません。時を逸せず、賞讃と讃嘆によって、本人に天才を認識させ、更なる努力へと向かわせることです。
最後に学力を向上させるにはどうすればよいかということです。(略)
子どもに宿る無限力を信じ、認めて、ほめて引き出すことの原動力は、言葉の力(発声音・表情・想念)なのです。毎日毎日、使っている言葉をこそ、磨いていきたいものです。
<F.R.さん>
「子供は皆天才である」-これが「生命の教育」の根本です。従来の天才教育とか英才教育は、一部の、天才がある、英才があると認められた子供を対象として行われた教育ですが、「生命の教育」では、すべての子供が天才、というわけです。谷口雅春先生は、「われわれの内に無限が宿っている。この無限を掘り出せば人間はみんな天才となるのだ。天才を、人間は皆もって生まれて来ているのだ。それに人間はみんな天才にはならない。それは不合理だ。その不合理は誰がするか。人間が真理を知らないからだ。親たるものが真理を知らないからだ。ダイヤモンドをもっていながら石だと思って捨てて顧みないからだ。」と説かれています。
天才とは、どういうことでしょう。人は誰でも、その子だけにしかない才能を持って生まれてくるので、これを天から授かった才能、持って生まれた才能、天与の才能、天分才能、つまり天才というのです。ですから、すべての人が天才を持っています。これを現し出せば、どの子も天才となり、生き甲斐のある人生を送ることが出来ます。全ての人間に無限力が宿っているのに、疑ったり、自己限定したりして、ダイヤモンドを石だと思ってしまっていることが多いのです。神の創造、子どもの天才を信じて、花開くのをじっと待つことが、まず第一に大事なことです。
では、どのようにして天才を引き出せば、よいのでしよう。その子にしかない天与の輝き、個性を発見し、認めて、誉め続けることです。認められる喜び、誉められるうれしさはやる気につながり、不断の努力への力となります。子供自身が興味や関心をもったり、やる気になった時、必要な助けや励ましを与えるよう、「卒琢同時」を意識することが大切です。ややもすると陥りがちなのは、現象的な勝ち負けや成功を求める心です。親の枠に押し込もうとしたり、自分の尺度で善悪を判断したりして、取越し苦労しがちです。そのため、その子の一生に連なる幸福や生き甲斐、その子ならではの独特な個性を生かし、その子独特の使命・役割を果たす、という観点が置き去りにされがちです。「生命の教育」は、子供は誰でも使命を持ち、与えられた使命を果たすに足りる十分な能力と、その子ならではの独特の優れた個性をもって生まれて来ている、愛と善と美とを表す本性をもっているとの人間観が根本にあり、この円満完全なる人間の「本来性」を引き出すのです。「神の子は神が育て、人間の子は人間が育てる。人間の子だと思うものは終世、取越苦労をして育てねばならぬ。子供を神の子だと思うものは、子供を尊敬して出来るだけその世話をさせては頂くが、神が守ってい給うと信ずるが故に取越苦労の必要はないのである。」と谷口雅春先生は説かれています。子供を信じて自由に放ち、外在価値に流されがちな現象心を禊ぎ祓いて、不思善悪の境地で神に全托することを「生命の教育」では説いています。
私の長男は、未熟児で生まれ、一歳の誕生日までに、100回以上意識を失い、視線を合わせることができす、十分な言葉かけができませんでした。谷口雅春先生の御著書を真剣に読み、先祖供養の仕方も教えていただいて真剣に祈り、不思議と大病は消えました。しかし、言葉が遅れ、6歳児検診の時、3歳遅れている境界児で、普通の学校に行けるぎりぎりのところだと言われました。でも、夫が「この子は素直な目をしている。素直な子は必ず伸びる。」ときっばりと言い切ってくれ、一筋の光を与えられて、私も「この子は必ず伸びる。大丈夫。」と信じ切り、神さまに全托することにいたしました。小学校に上がる時には、とにかく、何とか皆についていってくれますように、と祈る思いでした。数字に興味をもったので、公文の算数を始めると、どんどん楽しそうに取り組むので、「すごいね、素晴らしいね」とびっくりして誉めていましたら、いつの間にか3学年先の問題を解くまでに進んでいました。それが自信になり、苦手な他の教科も少しずつ伸びていきました。中学1年の初めての全国模試では、国語は、偏差値35で、全国的にもビリのほうでしたが、数学の偏差値は70で、学年でもトップクラスでした。国語と英語が苦手で、特に古文を暗唱したり、英文を暗記したりするのには、人の何十倍、何百倍もの努力が必要でした。時には、劣等感に苛まれ、落ち込んでいる姿も見られました。人がすぐにできることを、何十倍、何百倍の努力を注いで頑張る忍耐力や精神力は、この時の苦しい体験の中から培い、磨いた彼の天才です。「神の子のこの子には、この子にしか咲かせられない花が、きっと咲く時が来る」と信じ続けました。今、努力している尊い姿に感謝し、「あなたには数学がある。ありがたい。」と認めて誉め続けていました。しかし、高校の時、大学受験を前に劣等感に苦しみ、荒れる姿が見られ、私は、水を浴びせられたように猛反省しました。口では、「大学に行かなくても、自由にしていいよ」と言いながら、心の中では「小さい頃のハンディを乗り越えて、頑張れ、頑張れ。」と思っていたのです。子供はその親の期待に応えようとし、応えられない自分に悲しみ、絶望して苦しんでいたのでした。私は子供の背中を抱いて泣きながら心から詫びました。「あなたが生きてくれているだけでどれだけ有難くて幸せかしれない。生まれてきてくれてありがとう。」と。素直で優しい彼の、奥なる無限力が、不断の努力によって溢れ出し、その後、得意な数学を活かし、苦手な国語や英語も克服して、国立大学の理系に現役で合格したのです。大学では、熱心に学び、取得した単位は前例がない程多く、大学院には推薦入学しました。就職難の時代に、第一志望の会社に、大学からの推薦を受けて就職できたことは、本当に神様やご先祖様のご守護のお蔭と思われました。幼い頃の彼を知る人から見れば、奇跡のようなことです。
私は、子育てをしながら、小学校の教員をしていたので、現象的にどんなに劣っていると見える子の奥にも必ず光るものを見つけることができました。なぜなら、母親が心配して相談される、どの子も、私が息子の目の奥に見た光よりも、容易に輝きを見出すことができたからです。そして、どの子にも「大丈夫、大丈夫。」と、信頼と愛情をもって励ますことができてきたのも、神の子の息子が苦しみながらも、素直に誠実に一生懸命、与えられた使命を生きて来てくれたお蔭だと思っています。天から与えられた才能は、目に見えるものでなく、親や教師の絶対信と愛、本人の素直な心と誠実な不断の努力によって無限に引き出され、発展していく素晴らしいものだと思います。
現代の教育には問題が多く、後を絶ちません。たとえば、いじめ、不登校、学級崩壊、家庭内暴力、援助交際など多様多彩です。このような現象の背景には、根本的な原因として、唯物論的価値観による教育力の低下が考えられます。将来の我が国を担うべき子供を健全に育てていくためには、谷口雅春哲学に基づく『生命の教育』による教育力を普及拡大する必要があります。そして『生命の教育』では、「子供をよくするにはまず親を教育しなければならない。それほど親の心は子に影響するものであります」(頭注版『生命の実相』第13巻p.10)とあります。
子育ては、実は「親育て」なのであります。
親(養育者)が正しい人間観・人生観の考え方(価値観)を持つことが重要です。
社会(一般社会、地域社会)においても学校においても家庭においても正しい目的と方法がしっかりと定まっていなければ、正しいしつけ教育は出来ません。
今までは、「子供の欠点を見つけてこれを直してやろう」という唯物的な価値観によるしつけ教育です。心の法則から言うと、“認めたものは現れる”ので、本来の姿(実相)は現実化されません。目に見える子供の好ましくない姿(悪)は仮の姿であって、子供の本来の姿(実相)ではない。子供の本性は「善」であり「完全円満」であり、「無限可能性」を内に秘めている尊い存在なのだと信じて観ることが大切です。
目の前に展開する子供の成長過程は、子供に宿る無限の可能性が発現している過程であるということを心から信じることが大切なのです。
人の心の働きが意織(現在意識)と無意識(潜在意織)の二つに分類されます。意識は、普段心に思うことで、心全体の5%。海に浮かぶ氷山の海面より上の部分にたとえられます。無意識は、隠れた心ともいわれ、氷山の海面下の部分にたとえられ、心の95%を占めるとも言われています。私たちの運命を方向づけているのは、“無意識”の方です。この“無意識”にコトバを使って、肉体の奥にある「神の生命」が本当の人間であることを認識させることが大切です。
「生命の教育」では言葉の持つ力を重要視します。コトバとは(1)発生音(話し言葉)(2)想念・感情 (3)表情・態度の3つを言います。「生命の教育」の引き出す教育では、子供の内に既にある無限の可能性を“コトバ”で認めて、引き出します。
子どもは生来の模倣機能によって育ちます。まず、一番そばにいる親を模倣します。良きにつけ悪しきにつけ、親は子供の大事なモデルの役割をします。子供を良くしようと思えば、まず親自身が良くならなければなりません。親は子供という鏡に映った自分自身の姿を見て、親としてのあり方を反省しながら、成長して行かなければなりません。自ら形であらわす必要があります。親が『心のしつけ』と『形のしつけ』を“しつづける”ことが必要不可欠です。
「親が変われば子供も変わる」ということになります。
「生命の教育」における「しつけ」は“褒めるしつけ”です。
①褒めるしつけとは
子どもは褒められると喜びを感じ、その行為をまたしようと思う「やる気」を起こす、積極的効果があります。これは、人間に宿る5つの願い、「認められたい」「愛されたい」「褒められたい」「人のお役に立ちたい」「自由になりたい」という子供の切なる願いにかなうものだからです。
今までの「しつけ」の多くは“叱るしつけ”です。この方法では、子どもの5つの願いは満足されず、不快な思いをし、「やる気」を刺激されず、消極的な働きをします。発達段階によりますが、時に反抗心を起こすこともあるし、自信をなくし、いじけることもあるので気を付ける必要があります。
「叱る」は“行為そのもの”を注意するもので、理性的なものですが、「怒る」は、そこに怒りの感情が優先し、(親の)気分に支配されているので教育効果はありません。特に注意しなければいけないのは、叱られたことで“全人格を否定された”という思いをするような叱り方は絶対に避けなければなりません。幼少期の虐待も、同様な感を与えます。しつけと虐待を混同してはなりません。
子どもの発達段階を知ることは、子供を理解する上でとても大切です。大人が子供の養育上、間違いを起こすのは、子供が自分と全く同じ「同類」なのだと考えるところにあります。言葉も、運動も、情緒も、思考もさまざまなことが“発達途上”であることを認識しなくていけません。親の価値観を強要したり、干渉したりせず、「いつ、何を」なすべきかは、この発達の段階を理解したうえで対応することが大切です。大人へと生長していくわが子を大生命から授かった神の子として、目に見える変化に戸惑うことなく、子供をまるごと全て受け入れて、祈りの中でしつけを行います。発達段階が理解できていると、時には温かく変化を見守ることができます。子供の話や意見を共感して聞くこともできます。
子供の内に元々秘められていてまだ表れていない“無限の可能性”を“愛の心”で見出し、引き出し、顕現します。愛情ある優しい言葉(愛語)と、美点を見つけてほめる言葉(讃嘆)によって、子供の可能性を引き出します。子供の神性を引き出すためには、“祈り”が必要です。“心の眼”で“実相(ほんとうのすがた)”を“観る”という心の働きは”祈り”といえます。
さらに、ほめられることによってやる気を起こし、叱られることによって反抗心を起こしたり、自信をなくすこともあります。怒りには、感情が優先しており、効き目はありません。
まず受胎は父母の精神的波長が子供の霊魂を誘導し、牽引して受胎するものですから、受胎は霊界の必然であるということを知る必要があります。
それから、大人が子供についてしばしば養育上の間違いを起こすのは、子供が自分と全く「同類」なのだと考えるところから来ていることが多いのです。「子供は小さな大人」ではありません。言葉も運動も情緒も思考も、様々な事が発達途上にあり、大人と違っていることを理解しなければなりません。又子供は大人からすれば、考えられないようなことも子供なりの訳があってしてしまいます。何故?どういう気持ちなのか?子供の目線になって考えることも大切です。
親や大人が余裕をもって子供を温かい眼差しで見つめ理解していくことが大事なことなのです。
第3講座課題……勉強をしなさいと言っても勉強もせず、何かといえば反抗的な態度をとる中学生の子供に対して親としてどのように対応すべきでしょうか? 「心の法則」と「言葉の創化力」を活かした対応の仕方を述べてください。 |
<HIさん>
子供の反抗的な態度は、親にとっては切実な悩みで心配ですね。でもだいじょうぶ必ずよくなりますよ。親は自分の子供の幸福を願い、問題に真剣に取り組み、試行錯誤しながら最善の方法を模索する事は自然なことで、多かれ少なかれ子供の教育法方については、皆さんが悩み日々努力されていることではないでしょうか。しかし、努力することは大切ですが、そのほかに最も大切な心のもち方と言葉の使い方を身につけることが必要です。「生命の実相哲学」では、「人間は神の子」そのままで完全で素晴らしいと観て、悪い子はいないと信じる心を持つことが一番重要です。また、言葉には大きな力があり、運命を好転させ境遇を変化させる力があります。子供の潜在能力を引き出し自信を持たせるのも、自信喪失に落ち入らせ才能の眼を摘んでしまうのも言葉の使い方次第です。と教えられています。
あるお母さんが自分の子供に「勉強しなさい」、「こうしなさい、ああしなさい」と小さい頃から教育されていたそうです。子供に期待するあまり愛情が深すぎたんでしょう。「どうしてわかってくれないの・・・」親の心子知らず的に子供にきつくあたることもあったそうです。それが、たび重なり子供の純粋な心を知らず知らず傷つけていることに気づかずにいました、そんな親に対し子供は「自分の事をわかってくれない」「愛されていない」と思い反抗的になることが多くなってきました。
このような結果が現れている事はすべて原因があるからです。植物も種をまくという原因があるから芽が出て花が咲きます。種をまかなかったらなにも生えてきません。人参をまけば人参が生えてきます。ほうれん草をまけばほうれん草が出来ます。人参が欲しいのに何の種をまいたか分からない時には、生えてきた野菜を見て間違いに気づき、撒き返ればいいのです。人参が欲しければ人参の種をまけば良いのです。これが原因結果の法則です。
子供に問題が起るのも、どこかにそうなるような間違った原因結果の法則があるからです。
人は無垢で生まれはじめから悪い子供はいません。両親の心の状態や家庭環境という原因があって結果的にいろんな人格ができあがります。悪い姿が出てくるのは、心に悪い種をまいたようなもので、子供が自主的に反抗的になるのではありません。いい種をまけばいい子が育ち、悪い種をまけば悪い子が顕れてきます。子供の姿は親の心の現われであり、夫婦の仲が悪かったり、家庭の中に不調和な心が子供に反映して起るといわれています。心がすべてを創り出していくんです。
母親が父親を軽蔑したり反抗していても子供は親の背中をみて育ち学びますから親を軽視し馬鹿にするようになります。子供は不満を持ち親を憎みますから親の喜ぶことを嫌うようになり、親の言うことを聞かなくなります。学力が下がり親の悲しむ顔をみて喜ぶという不思議な心理状態になっていきます。隠れた心が創り出していくのです。
では、心とはいったいどんなものでどんな働きをするものなのでしょうか。
人の心には表面に現れている自覚した現在意識と、隠れている奥底の心の潜在意識とがあります。現在意識は常識の心で物事の判断や感情をコントロールをするハンドルの役目をし幸福や成功を希求します。潜在意識は隠れた意識で習慣の心と言われています。判断やコントロール不能で現在意識とは反対に働くことも多く有ります。
海に浮かぶ氷山にたとえられ、氷山の海面より上の部分が現在意識で心全体の5%程度と言われています。また、氷山の海面下の部分が潜在意識で心全体の95%程度を占めていると言われています。
このように隠れた心が私たちの心の大部分を占めていて子供に大きな影響を与えているんです。
自覚している心では、成功し親に「喜んでもらいたい」と思っていても、隠れた心が「嫌われている」と思う憎む心があると大部分を占めている潜在意識に方へ働き反抗的な行動をとるようになります。
子供は、外の誰よりも親に「認められたい」「愛されたい」「ほめられたい」「人のお役に立ちたい」「自由になりたい」という根本的な願いがあります。子供が親から認められ、愛され、ほめられ家族のお役に立っているいう自覚が出来た時、本当に生き甲斐というものが感じられるわけで、生き甲斐が感じられなければ、勉強の努力もできなくなってしまいます。ほめられることによって勉強する努力が増大するのであります。この根本的な願いを充足させる事が大切で、親が日々実行していかなければならないことです。その願いを満足させてくれた親に対して役に立ちたいとの思いが芽生えてきて、親の喜ぶような行動をとるようになります。
逆に、叱ることは、子供の悪を認めて悪と戦いますから心がみだれます。みだれた心は相手を強制したい、相手を従わせたい心ですから、子供の本来ある明るい自由な心を縛ります。誰でも自由でありたい願いがありますから不自由なしばりから逃げ出したり、心を閉ざし聞き入れません。自由になりたい心には束縛されたくない想いが強くありますが、多くの母親が知らず知らず、自分の都合で子供を縛って束縛していることが多くあるように思います。叱ることが多くなると、子供は自信をなくし「自分はだめな人間だ」と考えるようになり、何事もすぐにあきらめて投げ出してしまいます。また子供の想いや行動を止めることになり積極性をなくす働きがありますのでよほど注意が必要です。 誰だって怒られたときにはいい気はしません。それより反発する心が強くなります。
反抗的な態度をとってきたときには、想いを変えて「あーこの子は私を愛しているんだ。私の愛の表現(種)が間違って今この様な姿が現れているんだ。今からはいい種をまいていきましょう。」と考え方を変えて下さい。「この子はいい子だ」「素直な子だ」「やさしい子だ」「勉強の好きな子だ」と繰り返して言葉でほめてください。言葉には大きな力があります。言葉には創化力といって万物を作り出す働きをします。子供の本来ある明るい素直な心を認めて、勉強している姿を心で強く描いてほめてください。心で思うことが強いと実現力も早く念じ方が弱いとあらわれてくるのも遅くなります。ほめる事は太陽の光と同じ働きをしますからほめること事態が尊いことです。光のあるところ好い作物が育つように子供も自然と好く育ちます。子供を良くしようとほめるんじゃなく、本来ある善性を見てそれをほめるんですね。自分の子供の善性を信じてください。
世間には不登校になり、家庭内暴力をおこすような子供や、生まれつき病弱で親の介護を必要とする子供もいます。幸いにも、五体満足に生まれ、人並みに健康で元気に学校生活を送っていらっしゃるんじゃないですか?子供がいたからこそ苦しいことも悲しいことも乗り来られてきたんじゃないですか?いつも、癒され、助けられて、今の貴方があるんじゃないですか?そのことを忘れ一部の不調和なところを見て歎くより、子供がいたからこそ喜びや生きがいがあったことに気づき、子供に感謝することを忘れてはいけません。子供が「だだ今いる」そのことは、それだけで幸せで素晴らしいことです。もし病気や事故に遭ったと聞いただけで耐えられない気持ちになります。子供がただいるそのままを感謝する喜びに気づきます。この、ただいる子供の命に感謝することが大切なことです。条件が整えば感謝することではありません。
心の持ち方が間違っていたとわかったら、現状がどうあろうと貴方の子どもは、素直でやさしい親おもいなのは外の誰より貴方が一番ご存知なのではありませんか?それに感謝をせず不平を言ってはいけません。子供の善性を信じて尊敬し合える明るい家庭には、ほっといても光のほうに自然と延びる健全な子供になります。もともとそのように出来ているのです。
もともと「人間は神の子仏の子」でそのままで完全で素晴らしく、悪い子はいないのです。
子供の良いところを見つけ出し、悪いところは無視して見ないようにして、ほめる教育を心がけ、よい言葉の種をまけば心の法則にのり必ず良くなります。
感謝はすべてを許し癒します。子供を許し自分をも許します。感謝は愛の念を送りますから子供に感応し心が満足します。満足すれば憎む心が消え反抗する理由がなくなりますから進んで勉強するようになります。子供の善性を認め徹底的に感謝することをお勧めします。
<IHさん>
「生命の教育」の原理である前講座の「子供に宿る善性を信じる」に引き続き、今講座では「心の法則」と「コトバの創化力」という、実践的な二点を学び深めることができました。これらは、誰でもが今から「すぐにでもやっていくことができる」。すると「変わっていくことができる」という事がやはり最大の魅力です。ところがやり方が正しくないと、いくら努力をしても、「変わっていく」(善い方向に)事も、善い姿になっていくばかりか、まったく反対の方(望まない方向に)になり得るということもよくわかりました。(もっとも変わっていくのではなく、本来の姿が、あるいは元々あった姿が、顕れてくるのですが。)
今回の課題ですが、これは世間ではいくらでもある、よくある悩みかと思います。
「勉強しなさい」。まずはこの言葉を言わない様にします。子供は10回に1回くらいは勉強しようとしていたかも知れません。本来子供は勉強が大好きですので、それを信じ待つことです。そしてその待ち方が重要です。その子供の得意とする事、すばらしい所、どんなに小さな行いでも、様子でもよいので、みつけて、そしてほめる事です。それがたとえ反抗的な態度でやっている行動だとしても、その中ならほめる内容がみつかるかもしれません。
わが家でも長女(小4)に、「勉強しなさい」とよく言っていました。しかし、言えば言う程、本人は勉強以外の事をやりたがります。絵を描きはじめたり、本を読み出したり、「生命の教育」に出会うまでは、ほんとに私自身も「何をやっているんだろう」(言ったからといって、すぐに勉強するわけではないので)と、嫌悪感を感じていました。ところが娘のやっている事に対して、出来上がったものに対して、興味を持ち、それについて会話をし、どんな小さな事でも大きくほめる事で、なんとなーく、自分で勉強にも取り組んでいます。本を読んでいるときは内容をたずねてみたり、絵を描いているときは色づかいや組み合わせをほめたり、時には私自身もやってみたりと、ほめる所探しの練習からしました。
そして、幸せだなと感じる生活を送る上で、皆が願っている『人間に宿る五つの根本的な願い』、これは子供はもちろんの事、大人でもこれを感じる事ができたとき、本当の喜びの人生、生活を過ごすことができるのではないでしょうか。子どもに対してもそうですが、日常の人間関係をも、より良くするポイントです。
この講座を学んでいる最中でも、わが家ではいろいろな子供の体験(事例)が毎日の様に起きます。
先日、わが家の二女(5歳)が保育園で通っているスイミングスクールでの出来事です。ある日、二女が急に(スイミングの前日)「明日はスイミングに行きたくない」と言いだし、しまいには「園にも行きたくない」「スイミングをやめる」と言い出しました。この講座を受けていた私は、(いつもではそういうわけにはいかないが、)少しゆったりした気持ちで娘に対応ができました。「そうです。『コトバの力』だー!」と、その日から実践です。まずお風呂に入る時や寝る前など、二女となるべく一緒に密接になる時に、『姉妹の(家族の)良いところ、すばらしい所、探しゲーム』をやってみました。たとえば、「お姉ちゃんのすごいところ、すばらしい所はどこだろねー」とたずねると、初めはなかなか出てきませんでしたが、そのうちに「本を読むのが上手」「バレーボールが上手」「遊んでくんしゃーぁ(あそんでくれる)」と一つ二つと、妹なりにお姉ちゃん、家族、お友達といろんな「すばらしい」が出だしてきました。そして次に二女自身の事も言ってもらいました。毎日なので同じ事を言うのですが、私が忘れていると、娘の方から「『~ちゃんすばらしい』しょ」と、声をかけられる事もありました。そして寝る前には、「できる、できる。あさな(二女)は何でもできるよ」と、スイミングのことには特に触れずに、一週間を過ごしました。そしてまたスイミングの前日がやってきました。「あーちゃん(二女)、なんかスイミング行けそう」と、私と顔を合わせてない車の後ろの座席から、嬉しい声が聞こえてきました。私はそのまま前を見ていましたが、心の中で「ホッ」としていました。コトバの力に助けられた出来事でした。
心で招んだものが日常に現れてくる。どんな子供でも、大人でも、変わることのないこの法則を、子供には子供のやりたくなるやり方で、大人にはその人の生活スタイルや今おかれている環境などにあった提案が必要です。
「~しょう」ではなく、「~できる」。似たような言葉だとばかり思っていたこれらの言葉は、実はまったく行き先を変えてしまう魔法の言葉でありました。
<NMさん>
◎一般の教育法と新教連の教育との違い
新教連の教育法は谷口雅春先生の「生命の実相哲学」に基づく教育「生命の教育」の原理と方法の実践と応用である。
「生命の実相哲学」の根本は人間の本性(実相=生命の本当の姿)は絶対善なる存在であるとの自覚の徹底にある。
「生命の教育七つの心得」に、「子供に宿る善性を信じこれを引き出し伸ばし育てます」とあるように、絶対に存在する子供の中にある善性を信じ観続け(深い内面的なものを観る)、心に描いて内在の円満完全性を引き出す、現しだす、〝観の教育〟である。教育とはエデュケーション・・引き出す事である。
人間の内部に「神性・仏性」が宿っていて完全円満なのが人間の本性であるという事を信じる事である。悪い子を何とかしようとするのではなく子供の中にすべて良いものが既にある、素晴らしい能力があると信じそれを顕し出す、引き出す(信じないと引き出す事は出来ない)。 「観たもの、観じたもの、認めたものが現れる」と云う〝心の法則〟を駆使する。どこまでも子供の善性を信じ、どの子も間違いなく皆「神の子完全円満」であると拝む様な気持ち和顔・愛語・讃嘆で教育する。
一般の教育は未熟な子供にしっかりと教え込む、頭に詰め込む、教える形(教えるの語源=押し入れる・押し込む)をとるのである。親は子供を立派な人間にしなければならないと思い、自分の知恵で力んで、子供を自分の理想どおりに育てようとして縛ってしまう。子供を愛するあまりに、良い子であってほしい、完全であってほしいと思い、〝ここもまだまだ・あそこも良くしたい・よその子と比べたり〟と焦る気持ちが子供を縛って、身動きできない状況にしている。このように、子供に欠けているもの、悪い所に意識が集中しそれを探し出して直そうとする教育をしている親、学校が大半である。
また人間を単なる肉体的なものと見る唯物論的人間観だと、教育は必ず行き詰まる。多くの教育は宗教的な面を出さないように行われているが、しかし根本的に考えると人間というものをどういうふうに見るか哲学的、宗教的、情操教育がとても大切だと思う。
新教連の〝観の教育〟により問題のあった子供、あるいは障害をもった子供等も学校の先生達が直せなかったものが、驚く程改善された事例は沢山ある。
◎他の教育法と比べて〝生命の教育〟の優れている所
人間とは何か?自分の生命とは如何なるものかを自覚する事が教育の根本・人生の基本である。子供に人間は素晴らしいものであると知らせる。素晴らしさを知らないと素晴らしさを出す事は出来ない。
・「人間神の子」の人間観から、子供に宿る善性を信ずるところから始まる。全ての人間には最初から円満完全「神性・仏性」(神様と同じ性質・性格)が宿っている。また誰でも間違いなく素晴らしい天分・能力が備わっているものである。
愛・優しさを出した時、良い事をした時に嬉しい本質を持っている。人間は誰でも認められ、褒められて心が満足すると人のためになりたいと思う心になる、そんな素晴らしいものを持っている。
・人間は人間としての本質があり最初から禽獣とは違うのであるから、人間らしい生活習慣しつけを上手にしなければならない。
・人間は「神の命」そのもので、物質や肉体ではない。人間は神の生命の受胎せるものであって霊である。自分が生まれてきた事に歓び幸せを感じさせ、生き甲斐を感じさせる。人間は神様の愛し子であり愛と美と善とを顕す本性を持っている素晴らしい存在でる。
・子供は誰でも使命を持って生まれてくる。また使命を果たす十分な能力を持ら一人一人の個性天分を持って生まれてくる。その能力や優れた本性を伸ばそう、発揮しようとの意志や意欲を備えている。それが出来た時に生長し喜びを感じる本性を持っている。人間とは素晴らしいものであると教える。
(中略)
・・私の子育ての体験・・
私が〝生命の教育〟にふれたのは、子供が中学2年生になったころでした。初めての子育ては無我夢中で転勤族で親や周りの人にも相談出来る人がなく、一人で育てなきゃならないと勝手に思つてしまい、かなり肩に力が入ってしまいました。子供が幼稚園、小学校の時、善いところをほめてあげる事など無かったと思います。出来て当たり前、子供を一人前に育てなきゃならないと、直さなきゃならない所はないか、「ああしたら駄目、こうしたら駄目、早くしなさい、次はこれをしなさい‥」と事細かく口うるさくしかったり、指示ばかりしていました。そのうちに子供は常に私の顔色ばかり見るようになり、指示されないと不安になる様になつた事もありました。神経質すぎる子になっていました。
〝生命の教育〟にふれ自分の子育ては間違えていた。子供をがんじがらめに縛り付けていたともう反省しました。どれだけ子供は苦しかった事でしょう。また、子供の事ばかりに気をとられて、主人に気を遣う事もすっかり忘れてしまっていました。主人も寂しい思いをした事でしょう。子供の実相を観て、主人、子供に感謝するようにおしえて頂き実行しました。段々落ち着いて子供をみれる様になりました。今では子供も大人となり、私のよき話相手になってくれています。うるさい母を許してくれ、慕ってもらい、子供は本当に有り難いもの、愛しいもの、母親とは何て有難いもの。子育てのお蔭で私が大人にして貰ったと思っています。〝生命の教育〟に出会った事に心から感謝して、これから子育てする若い女性にもお伝えして、おおらかで楽しい子育てをして頂きと思っています。
「生命の実相哲学」では、現象(子供の困つた問題のある姿・状態)は如何に不完全であっても、不完全な存在は本来無く、実相(子供の神の子たる本当の姿)はどこまでも円満完全であると信じ観る事によって、形の上にも顕われてくる。徹底した現象の否定と完全な実相の肯定とにある。
現象的にはどんな悪い子でも、本当は誰でも無限の素晴らしさを持っている。どこまでも子供の善さ完全さを信じ観つづける。“心の法則〟で観たもの、認めたものが現れる。また〝言葉の創化力〟を駆使し、本来の円満完全の素晴らしさを現し出すことが出来る。
人間は本来素晴らしい神の子である。多くの教育現場に「生命の教育」を紹介し、広がってゆく時、家庭も社会も日本も世界も素晴らしくなるはずである。
<KSさん>
新教連の教育について『生命の根元を培う新しき教育』という本には、《教育の基礎となるものは、なんといっても、人間の内部に「神」が宿っていることを信ずることです。…教育というものは、教え込むのではなくて本来の「円満完全性」を引き出すのでありますから、それを引き出すためには、その「円満完全性」を信ずることがまず根本にならねばなりません。》とあります。
「神が宿っていることを信ずる」ということがポイントと思います。私が今まで勤務していたほとんどの学校では、「神」とか「仏」、「信ずる」といった言葉は禁句みたいで、口にすると変な目で見られました。神話も同様です。目に見えないものは非科学的だということでしょう。戦後の唯物教育のせいでしょうか。私は「信ずる」ことがすごく大切と思っております。
『生命の實相』第14巻には、《天才を、人間は皆もって生まれてきているのだ。それなのに人間はみんな天才にはならない。…ダイヤモンドをもっていながら石だと思って捨てて顧みないからだ。…人間を信ぜよ。神の創造を信ぜよ。…この信念が何より根本となるのであって、その信念から、いろいろな方法が、生まれてくるのだ。》とあります。また、『生命の實相』第1巻には、《生命の実相の自性円満を自覚すれば大生命の癒力(いやすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります。》とあります。ここでも、「信念」とか「自覚」、つまり「信ずる」ことがキーワードです。人間の本性(実相)は、だれもが絶対なる善をもち、そのままで無限の可能性が備わっている、それを信じて観て引き出す、これが新教連の教育の特徴です。
これに対して、世間一般にある教育法では、人間の内部に「円満完全性」が宿っているとは見ない、人間は素晴らしい存在であるという観点が欠落しています。人間は使えば減ってしまう(疲れる)物質的な存在と見て、現象の不完全な子どもの姿を実在と見、それが本当の姿だ、そう見るのが科学的だと信じて、その信念から「なんとかしなくては」と動き出す。それで、教育とは押し込むことと考えて、悪いところを直すとか、あたかも「料理」を作って食べさせるような感覚で、「それ食え、やれ食え」と教師が一方的に知織などを与え太らせるような感じです。「教える」とは「押し入れる」が語源なそうです。新教連の教育とはまったく反対に現象面から始まる、スタート地点がちがいます。
押し入れることが教育であれば、例えば学級の全員に対し、教師は責任を持つて知織や技能を押し入れようとがんばりますが、子どもがいっも素直に話を開くとは限りません。いらいら焦って険悪な関係になったりします。これでは子どもを尊重することにならないし、教師の一方的な「一人芝居」になり子どもの自主的なやる気は出てきません。叱ることが教育みたいになったりします。叱られると子どもは萎縮してしまい、暗い雰囲気になります。
「生命の教育」の優れているところは、子どもを萎縮させないで生き生きと明るくさせ、やる気を出させることです。子どもの内部に既に「円満完全性」が宿っていると観るので、子どもは自分から学ぶ力があると信じて、自分で主体的に学習します。与えられる料理から自分で作って食べる料理へ、という感じです。例えば、「明治維新とは何か」という課題が与えられたとすると、子ども達はいろんな資料を調べてみんなの前で発表し、いろいろ話し合ったりして教師の助言を待つ。押し付けではなく引き出す教育なので、積極的な学習になります。教師は、「やれる」ことを信じて、ほめて励まします。認めてほめることができるのは、善性が備わっていると信じているからです。「あなたは素晴らしい力を生まれながら持っているんだよ」と、自信を持たせます。
善性を信ずれば言葉のかけ方が明るくなります。例えば、「なに、この点数は?」→「これだけ点数取れたんだね、よかったねo」、「遊んでばかりいないで」→「あなたはやれる力があるから大丈夫だよ。やればできるんだよ。あなたは神の子で本当は素晴らしいんだよ。あなたが大好きだよ。」子どもは愛され、理解され、やれる力を認められたなら、とても嬉しくなります。「生命の教育」では、言葉がけが素晴らしいです。
私はかつて少年院を訪問し、次のような成功した体験がありますが、これも人間の本性は善であると信じて対応した「生命の教育」と思います。
それは、非行を犯したことのある少年達に、一対一で「心理検査」を実施したのです。そのとき、はじめのうち少年達は、ふざけ半分で「オレはバカだからわからない」と、「心理検査」に協力してくれないのでした。私は、これは本当の姿ではない、ふてくされていると思いました。それで、あくまでも彼らは本当は完全な神の子なのだと心の中で実相を礼拝して、検査に応じてくれなくてもじっと耐えて、言葉を丁寧に笑顔でがんばっていました。するとしばらくして、「オレ、ちやんとやる」という人が現れ、その後すらすらとみんなが検査に応じてくれたのです。彼らの可能性を信じていたからこそ、じっと待つことができた、引き出すことができたと思っています。
「生命の教育」ては、「徹底した現象の否定と完全な実相の肯定」と教えられています。現象の悪い姿を無しとしてクリアできるところが素晴らしいです。
「生命の教育」では、成功事例がたくさん伝えられており実証済み、科学的で信頼することができます。
私はこの善性を信ずるこの教育法(観の教育)を教えられたことに感動しています。感謝しつつ縁のある人に全力で伝えていきたいです。
胎児は4ヶ月を過ぎれば母親を認知できるようになり、母と子の交流が自然になされていることが分かっています。子供の心に、母との「基本的信頼感」が育つことが、最も大切なことであります。この信頼感が築かれていってこそ、子供は自信に満ち、安定した人格をもって社会的にも自立ができることになるのです。
このことを考えると、いかに乳幼児期の母親の心構えや生命を預かった責任は、重大だと言わざるを得ません。
又、子供の人格形成に不可欠なことと言えば、よい家庭環境であるかどうかですが、現代社会ではもはや健全な家庭や家庭教育も望めないと言っても過言ではありません。
今や働く女性の増加で、育児が二の次になり、離婚も増えて、子供の心的不安の要素は深いものと言えるでしょう。
性意識の乱れや学校教育でなされる性教育の誤りが、中高生の性交渉の容認までしている現状を思うとき、このまま看過できるものではありません。これからの性教育は、人間の生き方、生命の尊厳、男女平等のあり方、人を愛するとはどういうことなのかなど、人間教育を示しつつ若い世代を導いていかなければなりません。
また「道徳教育」が日教組のイデオロギーに阻まれて、多くの問題点を残し、今に至っていることは事実であります。
「生命の教育」は谷口雅春先生がご提唱された「生命の実相哲学」に基づく教育の原理と方法であります。「人間神の子」すなわち宇宙の大生命と同じ生命が内在して、生かされていることを自覚することから始まります。どんなに悪い姿を現していても、それが本当の姿であるとは観ずに、絶対善なる「神(大生命)の子」と観るのであります。これは「観の教育」といって、「観ずれば現われる」という心の法則で善性を引き出すのです。
その具体的な方法として、コトバの力を活用して内在の善性を引き出していくことです。日常生活で「和顔」「愛語」「讃嘆」を実践することにあります。「観の力」と「愛の力」で、子供の善いところを認めてほめて引き出すことを続けていくことです。
1.終戦を境とする社会情勢の激変
日本が「無条件降伏」(文末事務局注記参照)をして以来、GHQによる「日本弱体化政策」が次々と実施された。その第一が国際法を無視したGHQ起草による「日本国憲法」の制定であり、アメリカの教育制度を模した「教育基本法」の制定等の施策により、日本の伝統文化を破壊し、欧米的な個人主義、自由主義の思想教育が徹底的に遂行された。
①働く女性の増加やジェンダーフリーの思想により、乳幼児期に愛情に満ちた母親の育児ができなくなっている。
②離婚家庭の増加により、子供の心に傷を与え、人格形成に必要な〝よい家庭環境〟がなくなっている。
③性に関する過激な情報や誤った性教育により戦前にあった「純潔教育」は影をひそめ、安易な恋愛感情のままに結婚をして、〝夫婦で良い家庭を作り、よい子を生み育てる〟という強固な結婚観をもたなくなっている。
①過激な性教育が行われており、その結果安易な結婚、飽きれば離婚をくり返し、家庭教育機能の衰退のみならず、家庭崩壊が危惧されます。
②日教組の独自のイデオロギーによる教育が行われている。
ⅰ我が国の歴史に対して自虐史観を持ち、天皇制、国旗、国歌を否定し、反戦教育を行う。
ⅱ誤った平等観、差別観による教育を行う。
ⅲ誤った人権思想による性教育を行う。
これらの荒廃した社会情況から、再生に果たすためには、「生命の教育」普及が必須となります。
①「生命の教育」の教育原理の特徴は、「生命の実相哲学」の創始者谷口雅春先生が提唱された「人間・神の子」(人間は本来完全円満な人格という大前提)であり、この自覚の極に人間の〝真の尊さ〟や〝真の平等性〟の自覚が生まれます。
②「生命の教育」の教育方法は、〝観ずれば現れる〟という原理に基づいた〝観の教育〟に始まります。
「観ずる」とは、悪と見えるもの(現象)を見ず、その奥にある〝本物(実相)〟を心の眼で観ることです。
すべての人(子供)の本性は絶対善なる「神(大生命)の子」であり、その〝善性と無限の可能性〟を信じ、これを観じ(直視)、その本来の善なるものを「観ずれば現れる」という心の法則に則って〝引き出す〟のです。
③実践場面では、大いに「言葉の力」を駆使します。
コトバには、「創造力」があり、良い言葉は善事を促進し、悪い言葉はマイナスの影響を与え、人生に多大の影響を及ぼすことになります。
日常生活で特に必要な言葉は「和顔」で、これは和やかな想念が形に表れたもので、これもコトバの一種で、他人の心を和ませ、開かせる働きがあります。次は「愛語」で、これは他人に対する思いやりある優しい言葉で、子供の心を最も安定させ、自信(自己信頼感)の源泉となるもので、人間関係を円滑にする優れた潤滑油の働きがあります。次は「讃嘆」で、このコトバは子供はもちろん大人にとっても悦びに満たされ、存在感を高め、やる気を起こさせます。
正確には、ポツダム宣言で無条件降伏したのは、「日本国」ではなく「全日本軍」です。
(~念のため~ 事務局)